インスタグラムにアップする写真が映えているかどうか?このことが重要視されている。
一過性の時代の流れとは思うので、いつの日かみんな飽きてしまい映えてなくてもよくなるのかもしれない。
しかし、だからといってこのインスタ映え時代を上から見て達観して次の時代まで待つのもいかがなものか?
自分自身がそれでは映えていないのではないか?そんなことを思う今日この頃なのである。
自分達の設計した建築をそんな目で見てみた。
・・・あれ?映えるポイントはいくらでもある。
な〜んだそんなことか。いいかい、のび太君(ゆりあんレトリィバァのネタ的な)
と気が付いた。
インスタ映え。
いうまでもなく、写真を撮って人に見てもらう行為のことで、よりよい写真を模索する行為となる。
建築と写真の関係性はそもそもが密実な状態にあった。
コルヴィジェが写真を加工してまで誌面に発表した逸話のように、近代建築はいかに写真に納めるか?も一つの伝え方になっている。
戦略的建築と戦略的建築家は写真というツールがあってこそ、言いたいことが伝わっていく状態にあった。
もし、コルヴィジェの時代にSNSがあったなら、いかなる戦略で戦っていたのだろう?・・・と想像するのはやめとこう。
この時代の大きなコトは、インスタ映えした建築写真が、メディアという他者(ジャーナリズム)を介さずに拡散していくことのように思う。
表裏一体。
良い意味では、ダイレクトに言いたいことがつながる。悪い意味では翻訳されずむき出しで伝わる。受け取り方にばらつきがあるわけだ。
前向きにとらえれば、建築家は自らが伝える言葉を強くしてインスタ映えすればいいわけだが、そんなことまでしている暇はない。おしゃべりな建築家が良いものを造るという誤解すら生まれかねない。
さあ、困ったぞ。文章がまとまらない。
建築家とインスタ映え。
決定的に相いれないのは、建築は4次元的であり、二次元の写真では伝わらない部分が多い。
写真の背景にある余白をいかに想像させるか?それこそが文章力の勝負になるのであろう。
結論。
インスタ映えを狙うなら、的確な文章を添えなければいけない。
むやみやたらにハッシュタグつけて言いたいことをごまかすな。
よし、今年は映えていこう!